長い長いシュムリーのあとがきが、やっと終わりました。
まえがきとの重複も多く、終始説教口調のシュムリーの言葉を訳すのは、技術的にも精神的にも楽な作業ではありませんでしたが、「自分たちが心地よいところだけを切り取ったりしない」という方針を貫いて、最後まで一語一句省かずに訳すことができたのはよかったと思います。一部だけ切り取って判断するというのはマイケルの考え方に反することですから。今は大きな開放感を感じています。
「大きな開放感」と書いたのは、訳している最中に大きなストレスを感じていたということでもあります。何度PC画面に向かって悪態をつきかけたことでしょう(笑)。ひどい決めつけや偏見に、腹の立つことが多々ありました。
まず気になったのは、シュムリーの、エンターティンメントの世界に対する無知無関心でしょうか。ラビである彼がエンターティンメントに精通する必要はありませんが、彼の物言いには、自分の説いている宗教的な価値観に比べれば、エンターティンメントの世界は卑俗なものだ、という上から目線が感じられ、それは、スターや、スターに夢中になる人たちについての描写や、パフォーマーとしてのマイケルへの興味の低さに、如実に表れています。
巨額マネーが動くショウビズの世界では、商業的な成功のみをめざして過激な戦略をとる人々もいるかも知れませんが、困難な日々を生き抜く人たちを楽しませ、世界をより良い場所にするために、作品を世に出そうとするエンターティナーもたくさんいます。ラビのありがたいお話を100時間聞くより、エンターティナーが紡ぎ出す曲のメロディーや、あるいはダンスの動きに救われ、死ぬことを思いとどまることだってあるのではないでしょうか。少なくともマイケル・ジャクソンは、キャリアの最初から、そういうことを目指してきたエンターティナーでした。
シュムリーは、マイケルの才能を認めると言いつつ、彼がスーパースターとして世の中に与えてきたものの大きさについてはあまり触れず、スターらしくないところばかりを褒め、彼が有名になったのは美点よりも欠点によるものだ、皆がマイケルに夢中になるのは「なによりも、無軌道になりたいという衝動だ」などと断言します。それはあまりにも偏った認識で、MJのそばにいていったい何を見ていたの?と言いたくなります。
マイケルがシュムリーと交友を持った第一の理由は、異なったサイドの話を聞きその世界を体験することで、自分を常に新しく成長させようとしたからではないでしょうか。(シュムリーのまえがきには、対話のアイデアは二人が出会った後に出てきたことがうかがえます)ひとつの立場に固執して他者の善悪をジャッジするのではなく、いろいろな立場に立って考えてみるというのは、マイケルの一貫した姿勢だったと思います。
一方のシュムリーには、ラビという立場からマイケルの側に歩み寄って、相手の世界を理解しようという気持ちは感じられません。あくまでも、自分の陣地からのみものを言っていて、自分の陣地に入ってきたものは認め、その外にあるものに対しては批判的、ともすれば攻撃的になりがちです。たとえば、マイケルとの会話やあとがきにも登場するブリトニー・スピアーズのことは、性的なイメージを安売りしている堕落したエンターティナーとして言及しているのに対して、ブリトニーより以前に、性的イメージを巧みに使うことで成功したマドンナのことは庇い、批判することを避けているようにみえるのですが、この判断には、彼女が1997年頃からユダヤ教の神秘思想であるカバラを学んでいることが影響しているかも知れません。
シュムリーは、自分の広めたいユダヤの教えをスターの口を通して伝えれば、多くの人が耳を傾けてくれると考えていましたが、人が耳を傾けたくなるスターの価値がどこにあるかについては、謙虚な気持ちで分析していたとは思えません。つまり、マイケルとシュムリーの他者に対するアプローチの仕方には、かなりの隔たりがあって、それが二人の交友がとだえてしまった大きな理由だったのではないでしょうか。
ただ、シュムリーに対して腹の立つことだけで、共感できる点がひとつもなければ、訳し通すことはもっと難しかったでしょうが、そうではありませんでした。曲がりなりにも宗教者として勉強し活動してきているラビ・シュムリーに共感などと言うのは、「何様だ、自分w」という感じではありますが、彼のあとがきの文章には、自分の陣地を頑迷に守ろうとしながらも揺れ動く気持ちが垣間見えるようで、興味深かったのです。
シュムリーのあとがきには、celebrityという言葉が数え切れないほど出てきます。これは、日本語でも使う「セレブ」つまり有名人の意味にも、「有名であること・名声」の意味でも使えるのですが、とにかくこの言葉を頻出させ、fame(名声)attention(注目)なども動員し、彼は、「不健全な」名声のもたらす害悪、セレブの持つ堕落的影響について、しつこくしつこく説くわけです。「一回言えばわかるっつーの!」と読者は思ったことでしょう。少なくとも私は思いました(笑)どうしてかくもしつこくくり返すのか。読んでいるうちに、これはもしかしたら読者に向けて説いているのではないのでは?と思うようになりました。主に伝えたい相手は他にいるのではないかと。
シュムリーは、8歳の時に両親が離婚したことで寂しく不安な少年時代を送っており、自分の生きるよりどころを求め、ラビとして身を立てるため「自分のすべてを捧げた」とこの本の中でも語っています。ものすごく努力をしたのだと思います。でなければ、オックスフォード大学のラビのポジションは得られなかったでしょう。ユダヤ教を中心とするコミュニティの中でラビとして認められることは、彼の存在意義であったはずです。
マイケルをユダヤ教の広報者として自陣へ引き入れることが出来たのなら、それはラビ・シュムリーにとって大きな功績で、、ユダヤコミュニティの中での名声を得られたことでしょう。実はマイケルよりも8歳も若いシュムリーは、マイケルと出会ったとき30代半ばで、そういう野心に燃えていてもおかしくありません。でも、彼が思い描いた通りにはならなかった。
あとがきの中に、マイケルとの関係が途絶えた後、シュムリーがエリ・ヴィーゼルに電話をかけて許しを請う場面が出てきます。ヴィーゼルは「最初からうまくいかないと思っていた」「私はセレブとは距離を置くようにしている」みたいなことを言って許してくれ、シュムリーはほっとするのですが、それはまるで失敗した子供が父親に許してもらっているような図です。
シュムリーはヴィーゼルについて、「生きている人の中で最も尊敬を集めている人間のひとり」と、ことあるごとに褒め称えています。その政治的なスタンスから大きな批判を受けることもありますが、ホロコーストの生き残りであり、ノーベル賞受賞者となったヴィーゼル教授は、シュムリーにとっては、アメリカのユダヤコミュニティの頂点にいるような人物で、「私たちのプリンス」と呼ぶほどの存在。彼に認められ、受け入れられることは、大きな栄誉なのでしょう。
シュムリーには「セレブとは距離を置くようにしている」と話したらしいヴィーゼルですが、実際にはシュムリーの仲立ちでマイケルと公の場で同席し、会談もしています。また、自分の財団からオプラ・ウィンフリーや、最近ではトム・ハンクスに賞を授けるなど、セレブを通して世の中へ発信することに対しては、決して消極的ではありません。マイケルとの交友を、ユダヤコミュニティの地位向上に役立てようという目論見が、シュムリーだけのものではなかった可能性もありますし、それが失敗に終わった時、ヴィーゼルに対して「一番申し訳が立たない」とシュムリーが感じたのは、ヴィーゼルの要望をかなえられなかったという理由から、とも考えられます。
マイケルとの交友を「過ちだった」とヴィーゼルに詫びたものの、2009年、マイケルの死に衝撃を受けたシュムリーは、死後もなおマイケルのスキャンダラスな面ばかりを取り上げる世の中に対して、どうしてもこの対話を発表せずにはいられなかったのだと思います。この本の出版をシュムリーの売名行為だと言うMJファンもいますし、対話ではマイケルに同調しながらも解説で批判するのは、シュムリーの二枚舌だと言う人もいるでしょう。しかし、「眠っていた悲しみ、怒り、後悔、失望、そして愛情といったもの」にかられてこの本を出版することにしたというシュムリーの言葉に嘘はないと、私たちは考えました。
なぜなら、シュムリーは、広告塔として利用するという目的を外れて、マイケル・ジャクソンに強く惹かれていたと感じられるからです。それは、マイケルとの交友が始まったときの、「自分の話をマイケルが聞いてくれた!」という有頂天感にも、対話でマイケルの言うことに熱心に耳を傾け、その言葉に心動かされている様子にも、シュムリーがこの本の中で、「さようならマイケル」という言葉を、まえがきでもあとがきでもくり返し使っていることからも伺えます。付き合いが途絶えて8年も経っているというのに、一度くらいのさようならでは別れが言い切れないほど、つよく惹かれていたのではないでしょうか。だからこそ、交友が中断した悲しみも怒りも強かったのだと思います。
この本は出さずにはいられなかったものの、対話のままでは、ラビとしての本筋から外れているかもしれず、そこにあるマイケルへの強い思いは、シュムリーのヴィーゼルへの忠誠を揺るがしかねないものだった、という状況があったのではないでしょうか。それでシュムリーは、ユダヤ教のラビという立場をしつこいほどに強調し、自分が忠誠を尽くすのはあくまでもユダヤコミュニティであり、ヴィーゼル教授だということを、世間にも、また自分自身にも再確認する必要があったのではないでしょうか。両者の間で揺れるシュムリーの心が、まえがきやあとがき、そして私たちが憤りさえ感じた、対話の途中の解説に表れているように、今は思います。一冊全部を読み通してみて初めて感じられたことです。
以前、yomodaliteさんとの会話で、この本は『マイケル・ジャクソン・テープス』というよりは、『シュムリー・テープス』だよね、と冗談のように話したことがあるのですが、大衆の欲望に応じたマイケル・ジャクソン像を提供しようとする多くの本とは違い、ここには、マイケルに心を揺さぶられ、それでも、ラビとしての自分の立場と考えを表明しようとして、混迷し苦悩するひとりの男の姿が、正直に表れています。
そして、シュムリーが率直に懸命に話し書いてくれたことが、日本人の私たちが学んだり考えたりすることの少ないユダヤ的価値観について、うかがい知る機会を与えてくれているのも確かです。(私たちの身近では、ユダヤといえば陰謀論みたいなイメージがはびこりがちで、アメリカでもっとも有名なラビの一人として30冊以上の著作のあるシュムリーも、日本語訳は一冊しか出ていません)それは、反感や反論でふたをする前にまず「他者を知る努力をする」というマイケルの信条を実践する機会であるかも知れません。
翻訳の終わりに、シュムリーの言葉について考えてみるつもりだったのに、ここであらためて思います。
マイケルの磁力、そして啓蒙力、おそるべしと。
childspirits
2016年3月26日
山上の説教・第7章(MJ words Version)
◎人を裁かない
人を裁いてはいけない。それは、自分が裁かれないようにするためです。あなたが他者を裁く方法で、他者はあなたも裁きます。あなたが他者をはかる物差しで、他者はあなたをはかるのです。
あなたは、自分の目の中の〈丸太〉に気がつかないのに、なぜ、人の目についた〈おが屑〉が気になるのか。自分の目の中の丸太で物が見えなくなっているのに、どうして、人に「あなたの目から〈塵〉を取り除く手助けをしよう」などと言えるのか。
それを偽善者と言うのです。まず自分の目から丸太を取り除こう。そうすれば、はっきり見えるようになって、人の目から塵を取りのけることができる。
神聖なものを犬に与えたり、真珠を豚にあげるようなことも良くないことです。なぜなら、豚たちは真珠の価値がわからず、それを足で踏みつけ、あなたに向かって襲いかかってくるからです。
◎求めよう
求め続けよう。そうすれば、与えられる。探し続けよう。そうすれば、見つかる。門をたたき続けよう。そうすれば、開かれる。求める者には、与えられ、探す者は、見つけられ、門をたたく者に、門は開かれる。
あなたたちが親なら、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。そんなことはするはずがない。
あなたたちに悪いところがあったとしても、自分の子供に良いものを与えることはわかるだろう。だとすれば、神が、求めてくる者に、どれほど多くの良いものを授けてくださるかもわかるはずだ。
◎黄金律(ゴールデンルール)
人にしてもらいたいと思うことはすべからく、あなたも人にしてあげよう。これこそが、神から与えられた法律であり、神の言葉を伝える預言者が言うべきことです。
◎神の王国への門は狭い
神の王国には、狭い門からしか入れない。滅びにいたる門は大きく、その道は広く、そこを通る者は多い。でも、与えられた人生を成就するための門はとても狭く、その道は険しく、それを見いだす者は、数少ない。
◎実によって木を知る
偽の預言者に気をつけなくてはならない。彼らは、善良な羊のふりをしていても、その内側は強欲な狼です。彼らの振る舞いから、その素性を見わけることができる。茨(いばら)にぶどうが、あざみにイチジクが成るだろうか。良い木は、すべて良い実を結び、悪い木は、悪い実を結ぶ。良い木に悪い実が成ることはなく、悪い木に良い実が成ることもない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまう。成る実によって木を見分けるように、行いによってその人を見わけるのだ。
◎こんな人たちのことは知らないと言うだろう
『主よ、主よ』と呼びかける者が、みんな神の王国に入れるわけではない。神の心を知って行う者だけが入ることができる。審判の日には、多くの者が『主よ、主よ、わたしはあなたの名のもとに預言をしたではありませんか。また、あなたの名のもとに悪魔を追い出し、あなたの名のもとに多くの素晴らしい奇跡を行ったではありませんか』と言うかもしれない。そのとき、私は、『あなたたちのことなど、神はまったく知らない。神の法をおかす者は、わたしの前から去って欲しい』と言うだろう。
◎家と土台
わたしが説いた神の教えに耳を傾け、それに従うものは、岩の上に自分の家を建てた人のように賢い。雨が激しく降り、洪水が押し寄せ、風がその家に襲いかかっても、岩を土台としていれば、倒れることはない。
でも、教えを聞いても行わない者は、砂の上に自分の家を建てた人のように愚かだ。雨が降り、洪水が押し寄せ、風がその家に襲いかかると倒れ、そしてその倒れ方もひどいものになってしまう。
Keep the faith! Make a change!!
『The Michael Jackson Tapes』は、マイケル・ジャクソンの死から3か月後に出版された、ラビ・シュムリーとの対談本です。
評価については賛否両論ありますが、この本の最大の魅力は、マイケル自身の生の言葉が収められていることです。作品以外で自分を表現することを、おそらくは意識的に避けていたマイケルが、発言の形で残した言葉は決して多くありません。それだけに、この対談での彼の言葉はマイケル研究にとって貴重です。
「マイケルが」語った言葉は、
やはり「マイケルについて」語られた言葉に勝ると思うのです。
シュムリーの言葉には、感謝の念を感じることもあれば、首をかしげたくなることもあり、翻訳に戸惑うこともありました。しかし、シュムリーはマイケル自身が対談の相手として選んだ人物で、その選択にはきちんとした理由があったはずです。
シュムリーがどのような教養と経験を兼ね備えた人で、マイケルにどのようなボールを投げたのか。そのボールをマイケルがどのように受け止めたか、あるいは打ち返したか。
一連の流れすべてが、マイケル・ジャクソンという人の、深さや広がりを知ることに繋がると思い、いっさいを省略せず全訳という形にしました。
本書は、昨年翻訳を公開した「Honoring the Child Spirit」よりも早く出版されています。翻訳の順序が逆になってしまったわけですが、今思えば私たちには、いきなり「Michael Jackson Tapes」に取り組む心の準備ができていなかったように思います。
「Honoring」におけるシュムリーの語調は「Tapes」よりも落ち着いており、マイケルへの共感も深いものになっていました。推測に過ぎませんが、「Tapes」当時のシュムリーはマイケルの突然の死に対して心の整理がつかず、自分自身の力が及ばなかったことも含め、悲劇を招いた状況に怒りを感じていたのではないでしょうか。それが、時に独善的に聞こえるような物言いに結びついたのかも知れません。
「Honoring」を訳して、穏やか且つ冷静になったシュムリーに出会えたことで、「Tapes」を訳すことができたと思います。逆に言えば、「Tapes」を読んでから、再び「Honoring」を読み直すと、また違った発見があるのではないかと思います。
今回の翻訳が、私たちにとってそうであったように、多くの方々にとって、マイケルの多岐にわたる能力と魅力を、さらに深く知る助けになることを願っています。今回は「別館akim」のakimさんにも協力いただいて、4人共同で翻訳しました。
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